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釐公(きこう、? - 紀元前698年)は、斉(姜斉)の第13代君主。荘公の子。「釐公」は『史記』の表記で、『春秋左氏伝』では僖公と表記する〔『春秋左氏伝』桓公十五年〕。 == 生涯 == 荘公64年(前731年)、荘公が薨去したため、子の禄甫(ろくほ)が立って斉君となった〔『史記』「斉太公世家」〕(以降は「釐公」と表記)。 釐公11年(前720年)12月、釐公は鄭の荘公と石門(斉の地)で盟を結んだ〔『春秋左氏伝』隠公三年〕。これ以前に結ばれた盧の盟約をかさねるものである〔。 釐公14年(前717年)5月、釐公は魯の隠公と会合し、艾で盟を結んだ〔『春秋左氏伝』隠公六年〕。これにより斉と魯は初めて和平関係となった〔。翌年(前716年)、釐公は弟の公子年(夷仲)を魯へ遣わした〔『春秋左氏伝』隠公七年〕。 釐公16年(前715年)春、釐公は鄭・宋・衛3か国の和平を図った〔『春秋左氏伝』隠公八年〕。宋と衛は、東門之役(前719年)〔衛を簒奪した州吁が主導し、宋・衛などの連合軍が鄭を攻撃した戦争。州吁が討たれたのち、宣公が迎えられた〕で鄭を攻撃していた。7月、釐公は宋の殤公、衛の宣公と温で会合し、瓦屋(周の地)で盟を結んだ〔。これにより、宋・衛・鄭の和平が成立した〔。 釐公17年(前714年)、宋の殤公は周王への朝覲を怠った〔『春秋左氏伝』隠公九年〕。鄭は王命を奉じて宋と開戦し、宋と魯の関係も断絶した〔。冬、釐公は魯の隠公と防(魯の地)で会合し、宋を撃つ相談をした〔。翌釐公18年(前713年)2月、今度は鄭の荘公も交えて中丘(魯の地)で会合し、宋攻めの日取りを決めた〔『春秋左氏伝』隠公十年〕。そして6月、斉・魯・鄭の3国は宋に攻め入り、その領地を奪った〔。7月になって、宋側に衛と蔡が加わったが、互いに折り合いが合わずに不和となり〔、斉・魯・鄭はこれらを撃ち破り勝利した〔。また、衛・蔡とともに王命に背いた郕を、鄭とともに討った〔。 釐公19年(前712年)、斉・魯・鄭の3国は続いて許を攻撃した〔『春秋左氏伝』隠公十一年〕。9月に許に攻め寄せた3国は3日で許を陥落させ〔、許の荘公は衛に亡命した〔。釐公は許の地を魯の隠公に譲ろうとしたが、隠公が辞退したので、許は鄭に与えられた〔。鄭の荘公は許叔(許の荘公の弟)と公孫獲(鄭の大夫)にその地を統治させた〔。 釐公21年(前710年)1月、宋の殤公は臣下のに殺害され、華父督は荘公を立てた〔『春秋左氏伝』桓公二年〕。釐公は魯・陳・鄭の君主たちと稷(宋の地)で会合し、宋を討つ相談をした〔。しかし、宋は4カ国に賄賂を贈ったため、宋討伐は取りやめとなった〔。 釐公22年(前709年)1月、釐公は魯の桓公と嬴(斉の邑)で会合して婚約を結ぶ〔『春秋左氏伝』桓公三年〕。9月、娘()が魯の桓公に嫁いだ〔。釐公は娘を自ら讙(斉の地)まで送り(ただしこれは礼に適わないこととされている〔)、讙で桓公と会見した〔。 釐公25年(前706年)5月、北戎が斉に攻めてきた〔『春秋左氏伝』桓公六年〕〔。6月、鄭が太子の忽(こつ、のちの昭公)を派遣して斉を救援させ、北戎を撃破した〔〔。これに対し、釐公は太子忽に娘を娶らそうとしたが、「大国の斉とでは釣り合いがとれませんので」と辞退された〔〔。 釐公29年(前702年)12月、釐公は鄭の荘公の求めに応じ、衛とともに魯に侵攻し、郎(魯の地)で戦った〔『春秋左氏伝』桓公十年〕。 釐公32年(前699年)春、鄭が紀・魯とともに斉・宋・衛・燕の4カ国連合に攻撃をしかけ、4カ国連合が敗北した〔『春秋左氏伝』桓公十三年〕。この年、釐公の同母弟である公子年が卒去し、「夷」と諡された(夷仲年と呼ばれる)〔。釐公は夷仲年の遺児である公孫無知をとても寵愛し、俸禄や服飾などを太子と対等の待遇にした〔。 釐公33年(前698年)12月丁巳、釐公が薨去し、太子の諸児(しょげい)が立って斉君(襄公)となった〔『春秋左氏伝』桓公十四年〕〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「釐公 (斉)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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